一条寛治のブログ

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【憲法小論】4立憲政体とは国民国家の政体である

 4.立憲政体とは国民国家の政体である

 

 専制政体から立憲君主政体への移行は国会制度の発達と同義であり、君民共治の政体への移行でもあった。

 

 英国は立憲政体の母国と言われる。では英国ではいかにして国会制度が発達したのだろうか。

 まず専制政体の起源は戦争にあった。民主的な組織では戦争に耐えられないから、軍隊の大将(将軍)が全体を束ね、平時にもその支配が継続して制度化された。特に大陸国では常に外国の侵攻に備えなければならないから常備軍が必要であった。これが専制の手段となり、対立する貴族を監視する君主の官僚にもなった。

 一方英国は大陸国と海で隔てられ、外国の侵攻を受けず、従って常備軍を有さず、専制を行う手段がなかった。君主が貴族と対立した場合は国民を味方にする外なく、騎士や市民を召集し賛同を得て対抗した。

 

 有名なマグナ・カルタ(大憲章、1215)は、君主が新たな課税をするには、高位聖職者と大貴族の同意を要することを君主に認めさせ、模範会議(1295)には国民の総ての階級から召集された。総ての階級が一堂に集まることもあれば、各々別室で会議を開くこともあった。高位聖職者と大貴族、騎士と市民はそれぞれ利害が一致したため二院に分かれ、これが上院下院の起源となった。

 

 清教徒革命を主導したクロムウェルは王政を廃止し、貴族院をも廃止した。クロムウェルは独立派の軍隊を率い水平派を弾圧し、王党派を武力鎮圧し、護民官(護国卿)として事実上の専制を行った。この軍隊が常備軍となった。彼の死後子が後を継いだが、議会はチャールズ2世を即位させ、護民官を廃止した。

 しかしチャールズ2世もまた専制を志向したために、議会はオランダ総督ウィレムと通じイギリスを攻めさせ、ウィリアム3世として王位に即かせた。なお清教徒革命前後から名誉革命に至る君主と議会の対立は新教と旧教との対立でもあった。

 

 権利請願権利章典によって国王に対する議会の優位が確立した。ウイリアム3世とアン女王の後、議会は女王の遠縁に当たるドイツのハノーヴァー選帝侯ジョージ1世として即位させた。ジョージ1世は英国の政治に疎く、君主の機関であった内閣に委ねた。以後内閣は君主のみならず議会に対しても責任を負う(二元型)議院内閣制が確立する。

 

 さらに進んで「議員は全国民の代表であり、人口に比例した選挙区より選出されるべきだ」とし、議員は選挙区(地域)の代表者から全国民の代表者となった。そして民意を背景とした政党内閣と庶民院(下院)の優位が確立した。議院内閣制における国会は立法府であり、内閣の原動力であり、国の政治の中心となった。この意味で国会は政治上の最高機関であるといえるのである。

 

 国家の統治権立法権、行政権、司法権に分けられる。凡そ立法とは法律を作ることをいい、行政及び司法は法律を執行することにおいて共通するが、司法とは民事刑事の裁判を行うことをいい、行政とは立法及び司法以外の国家の作用をいう(従って行政裁判は行政に含まれる)。

 専制政体では統治権は君主が独占していたが、立憲君主政体では立法府たる国会が内閣及び裁判所に対し優位の地位にあり、実質的に国政を統括する地位にある。国会は国民の代表機関なのであるから、間接的に国民が国政を統括する地位にあり、国民は被治者であるのみならず治者の一員として、国家の統治に参与する。

 国民とは狭義には君主を含まないが、広義においては君主もまた国民であり、国家の統治権には君民が共に国民として参与するのであるから、立憲政体とは、国民自治の政体即ち国民国家の政体であると言えるのである

 

 君主のいない民主国においては、国民が法律上の権力(権威)を有し、国会及び大統領が政治上の権力(権限)を有する。国会、大統領及び裁判所は国民の名で立法、行政及び司法を行うのであるから、これも国民自治の政体即ち国民国家の政体であるといえる

 

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