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一条寛治のブログ

日本憲法と安全保障について考えるブログです。

美濃部達吉『憲法講話』 1.国家の本質

 かつて美濃部達吉憲法講話』(大正7年)の原文をそのまま記事にして投稿したことがあったが、国立国会図書館のホームページに行けば無料で読めるし、kindle版で再版されてもいる(先を越された)。そう考えると全く芸のないことをしたと思う。

 同書が広く読まれることを望むのは、序文にもある通り「健全なる立憲思想」を説いているからで、「条文に書かれてなければ立憲主義に反する」という現代の憲法学とは一線を画するからである。そこで同書を引用しつつ、僭越ながら解説のようなことをして、出来る限り現代に置き換えてみたい。

 

 ▼なお、序文はこちら

 美濃部達吉『憲法講話』 序文(大正元年版/大正7年版) - 一条寛治のブログ

 

 

 第一講 国家及政体

 

 「憲法といふのは、一口に申せば政体の法則と云つても宜い位で、其の規定の最も重なるものは国の政体に関する事柄でありますから、憲法のお話をするには、先づ政体とは何であるかといふことを、明白にすることが必要であるし、而して政体の事を論ずるには、先づ国家といふ観念を明にしなければならぬ美濃部達吉憲法講話』大正7年、p1-2)

 

 「国家の本質に付いては、古来種々の見解が行はれて居ります。大体に就いて申すと、其の考へ方には、凡そ二種の傾向がある。その一は国家を以て君主の持ち物の如くに考へる思想で、一は国家を以て国民の共同団結として考へる思想であります。言ひ換ふれば一は天下は一人の天下なりとする思想と、一は天下は天下の天下なりとする思想とであります(同p3)

 

 美濃部は前者を君主説、後者を団体説としている。穂積・上杉の天皇主権説は前者、美濃部の天皇機関説は後者に当たる。

 

 「第一に、国家を以て一人の持ち物の如くに考へ即ち天下は一人の天下なりとする思想は、東洋に於ても西洋に於ても、種々の時代に屡見はれた思想であります。此傾向に属する学説にもいろいろあ(p3)るが、「帰する所は何れも君主と国家との関係を以て恰も所有主と所有物との関係の如くに見るのであつて即ち国家が君主の持ち物であると解するのであります・・・換言すれば、国家はそれ自身に目的を有する活動体ではなく、唯君主の目的の為にのみ存し、君主の統治の力に依つてのみ維持せらるゝ者であるとするのであります。

 此の如き見解は、西洋の封建政治の時代に於ては、一般に西洋諸国の人心を支配して居つた思想であります。封建政治は武力政治の時代であつて、武力の強い者が土地を侵略し人民を征服して帝王となり、其の武力の続く間は之を維持して、其土地人民を自分の世襲財産の如くに子孫に伝へたのであつて、学者は斯ういふ時代の国家を家産国と称して居ります(p4-5)

 

 「併ながら此の如き見解が健全なる国家思想と相容れないことは、今日に於ては更に疑を容れない所であります。君主が統治権の主体であつて、国家は其の目的であるとするのは、譬へて言はゞ国家を以て羊の群の如きものとし、君主は牧羊主の如き地位に在るとなすものである。牧羊主は固より出来るだけ其の畜つて居る羊を保護し其の繁栄を計るであらうけれども、それは唯牧羊主自身の目的の為にするのみで、羊と牧主とが共同の目的を有し、協力一致して其の目的を達しようとするのではない。羊の群は唯牧主の支配の目的物となつて居るのみで、牧主と群羊とは権利主体と客体との関係に在るものである。君主が統治権の主体であり、国家はその目的物であるとするのは、即ち君主と国家との関係を以て之と同様の者であると考へるものに外ならない。併ながら国家を以て恰も羊の群の如くに君主の一個人の目的の為のみに存するものであるとすることは、その健全なる国家思想に反することは、今日に於ては何人も疑はない所であらう。国家は決して君主の個人的の目的の為に存するものではなく、君主も臣民も共同の目的を有し、臣民は君主を輔翼し、君主は臣民を指導し、上下心を一にして、協力一致其の共同の目的を達しようとするのであつて、国家は此の共同の目的の為に存する永遠恒久の団体である。国家は決して羊の群の如くに、他の目的の為に存し、他の者の支配の目的物となつて居るものではなく、それ自身に目的を有し、其の目的を達する為に活動するものであつて、君主の統治は即ち此の国家全体の目的の為にするものに外ならないのである。

 それであるから、此の第一種の傾向に属する見解は、今日の国家思想の下に於ては、断じて排斥すべきものであります(p5-7)

 

 「第二の見解は、第一種の見解とは反対に、国家を以て単に一人の持ち物とはなさず、国民全体の永久的の結合体であると見るの説であります、此傾向に属する学説もいろいろに分れて居つて、或は国家は有機体であると説明する者もあり、或は国家は一つの団体であると解する者もあるが、其の大体の思想は何れも同様であつて、其の第一種の見解と異なつて居る最も著しい点は、君主と国家とを権利主体と客体との関係に在るものと看做さず、君主も臣民も同心一体を為し、其の全体を以て有機的の団体を為して居ると見ることに在ります。国家を以て単なる統治の目的物となさず、国家それ自身が目的を有し活動力を有する主体であると見るのであります。

 此の第二の見解が国家の本質に付いての唯一の正当なる見解であります。因つて是より此の見解に随て簡単に国家の本質を説明しようと思ひます(p7-8)

 

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 国家は君主の所有物ではなく、一つの団体であることを繰り返し説いている。これは機関説を攻撃する主権説に対するものである。

 主権説は天皇統治権の主体であり、国家はその客体であると説く。天皇親政が日本の國體であるから、天皇の意思が国家の意思であり、「天皇即チ国家」なのである。従って天皇を国家の一機関とし、帝国議会と共同して統治権を行使するという機関説は全く排除すべき思想となる。政党政治、議院内閣政治は論外で国務大臣天皇に対してのみ責任を負う存在である。

 一方機関説は、君民同治が日本の國體であるから、大権行使には天皇の意思のみならず、必ず議会の協賛や国務大臣の輔弼を必要とする。天皇は法律上国家の最高機関であるが、政治上の最高機関ではない、つまり(実質的)決定権を有さない。それは日本が立憲国だからである。議会政治は政党政治、議院内閣政治となるのが普通で、国務大臣天皇に対してのみならず帝国議会に対しても責任を負う。帝国議会は国民の代表機関であるから、間接的に国民に対して責任を負うことになる。

 機関説は、帝国憲法を立憲的に運用するための理論である。国家は国民の団体であり、この国民には天皇・皇族も含まれる(広義の国民)。主権説では天皇・皇族は含まない(狭義の国民)。何故なら国家は天皇の所有物であるからで、美濃部はそれを否定するために繰り返し、国家は一つの団体であることを説いている。

 

 ▼国民の定義

 天皇が「国民」に含まれるかは、「国民」の定義による - 一条寛治のブログ