一条寛治のブログ

日本憲法と安全保障について考えるブログです。

奈良~平安時代の地政学

 律令体制が確立し、緩み始めるころの話である。

 

 「渤海国朝鮮半島にあった高句麗の子孫が朝鮮半島北部から沿海地方満州にかけて築いた国で、日本では当時、高麗とも渤海とも呼ばれ、長期にわたり親密な関係を持っていた(鍛冶俊樹『領土の常識』p198)

 

 「日本と渤海国はなぜ長期にわたって国交を維持したのであろうか?(同同)

        

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 (画像引用元:渤海国とのお笑い外交 ( 読書 ) - PENSEE - Yahoo!ブログ

 

 「618年、隋が滅び、代わって唐が中国を統一した。663年、唐・新羅連合軍は百済・日本連合軍を朝鮮半島の白村江で破り、百済は滅亡。日本は半島から完全に撤退した。668年、唐・新羅連合軍は高句麗を滅ぼし、676年、新羅は唐軍を追い払い、朝鮮半島を統一した。

 702年、日本と唐が国交を持ち、高句麗の子孫が造った国・渤海国が713年、唐と国交を持ち、727年、日本と国交を持っている。この意味するところは地図をみれば明らかだろう。朝鮮半島新羅を封じ込める戦略である

 この戦略は大成功だった。各国境には小規模な紛争はあったものの、200年近く安定した東アジア秩序が実現したからである(同p200)

 

 「新羅は936年に高麗に取って代わられ、大陸では960年に宋が興ったが、渤海国を滅ぼした北方民族の遼は高麗や宋を圧迫したから、高麗も宋も北の脅威に対処するのに手一杯で、日本の脅威とはならなかった(同p201)

 

 この辺りは、山川日本史にも記述がある。

 

 「中国東北部などに住む靺鞨族や旧高句麗人を中心に建国された渤海と日本とのあいだでは、親密な使節の往来がおこなわれた。渤海は、唐・新羅との対抗関係から727(神亀4)年に日本に使節を派遣して国交を求め、日本も新羅との対抗関係から、渤海と友好的に通交した山川出版社『詳説日本史B』p45) 

 

 「907(延喜7)年、東アジアの政治と文化の中心であった唐が滅んだ。・・・やがて中国は、宋(北宋)によって再統一されたが、日本は東アジアの動乱や中国中心の外交関係(朝貢関係)を避けるために、宋と正式な国交を開こうとはしなかった(同p71)

 

 「中国東北部では、奈良時代以来日本と親交のあった渤海が、10世紀前半に、契丹(遼)に滅ぼされた。朝鮮半島では、10世紀初めに高麗がおこり、やがて新羅を滅ぼして半島を統一した。日本は遼や高麗とも国交を開かなかった(同p72)

 

 ところで、これには続きがある。

 

 「従って日本は半島や大陸の国々と国交を持つ必要がなくなり、『源氏物語』のような国風文化が成立した。また対外的な脅威を感じなくてすむようになったため国家統一の気運が次第に薄れ、平安朝が瓦解するに至った(鍛冶俊樹『領土の常識』p201)

 

 ▼引用文献 

領土の常識 (角川oneテーマ21)

領土の常識 (角川oneテーマ21)